ゆるふわ〜は続かない!

思ったことを徒然なるままに。ためにはなりません。

無題

仙台はしとしとと雨が降り続いています。この土地は台風こそ来ませんがその影響は十分受けているようです。台風と言えば、小学生の頃は台風が来るたびに家にこもり家族で映画など見たものです。昨今は台風が来たとしても以前ほど大きくなく家に籠らなくてもよくなったように感じます。進路の関係かはたまた環境の変化の関係か。

 

今私はそんな雨降り続く仙台でこの文章を書いています。荒れていてLes Misérablesが流れている小さな部屋。何者にも不可侵な自分だけの空間。物理的に不可侵な空間が自分の部屋だとすれば、精神的に不可侵な空間はどこなのか。

 

今まで関わった人はいい人ばかりだったと思うことが多いです。自分の利益関係なく面倒なモノに関わってくれるし心配もしてくれます。見返りを求めない優しさや愛に枕を濡らすことも少なくありません。最早evenの関係性ではないのでいつかこの関係性も破綻するのではないでしょうか。

 

”雨に花散る”と字面だけ見ればさも美しいもののように思えますが、降り続く雨に耐えきれず地面に落ち、踏まれ潰され美しい色を止めることも叶いません。太陽が照らせば賞賛されていたものもひとたび地に落ちれば誰の目にも留まらず泥の色に侵されるだけ。泥色さえも愛することができればあるいは、とも思いますがそれを許すこと叶いましょうか。

 

思ったことを口にすることは大事であるということをここ数年で学んだことですが、同時にその危うさも同時に学んだことでそれらのバランスは極めて難しいという平凡な結論に至っただけでした。泡のように消えてなくなりたいと思っても、口にすれば聞いてしまった人に悲しみを覚えさせるだけ。大切な人ほど傷つけたくない。特に家族は。これは歪んでいるのか。それとも逃げているだけか。

 

雨はやがて土地に染み込み実りをもたらすもの。過ぎ去ればそれほどでもなかったと次の実りを待ち望む。それでよいではないか。今吹きさらされようともいつか報われると思えば。いかに苦しかろうともいつか芽が出る。運悪く根腐れさえ起こさなければ。根腐れを起こさない確証はなかろうとも。そこに咲く花は以前と同じだけの数なのか。人知れず死んでいった花はないか。

 

やっと帰る。雨の降る街から太陽が降り注ぐ街に。待ち望んでいた。両親や兄弟と気ままに釣りでもして。手料理が食べたい。何も気にすることなく笑って、泣きたい。感情の赴くまま美しい街を散策したい。なんのしがらみもなく。過去に囚われず。もう雨に囚われたくない。一人で生きたくない。この安息の地安息を与えてくれる人々を失ったら?考えたくない。家族を誰一人失いたくない。まだそれが先だとしても考えるだけで心乱れてしまう。自分で道を切り開かなくてはもう失うだけの人生になるのだろう。

 

愛される為にはそれ相応の努力が必要で、道端の花さえもそう。苦しみを押し殺して幸せを享受する為にただただ前を向いて。その努力を怠ったものには絶望しかない。知っているそんなことは。

 

目の前にあるのは絶望しかない。それから逃れる為にいなくなる。もう戻らない。

ごきげんよう、さようなら。 

 

P.S

これを読んでいるかわからないけど

随分前だけどブログ読みました。私のことを心配してくれてありがとう。仲間だと思ってくれてありがとう。スリッパの片割れだって私も思ってたよ。